剛健、シンメトリー

シンメ、という概念はこの界隈特有のものだと思います。少なくともわたしは三宅健さんを好きになるまでそのような単語は知らなかったです。つまり、わたしにとって最初のシンメは剛健でした。最初にして最大のシンメ、最強のシンメ。あの日からわたしの人生の研究テーマになった剛健、その後わたしはすべてのシンメを剛健というフィルターを通してでしか見られなくなってしまったのです。恐ろしいことですねえ。

 

というわけで剛健についてです。まさかこの記事だけで剛健の全てを語り尽くせるなどそんな大それたことは思ってはいないですが。剛健とは森羅万象であり、宇宙なので。宇宙の果てを解明することが困難であるように剛健の果てもまた解明は困難でしょう。運命や必然という単語もまた、剛健の前では安くさいお飾りになってしまうのです。これは三宅さんのファンになって数年足らずの一塵による雑感だと思っていただければ幸いです。

 

剛健、を語るにはまずもちろん、森田剛三宅健が出会ったことから話すべきでしょう。森田さんが事務所に入ったのは1992年、その1年後に三宅さんが入所しました。出会ったときのことをふたりとも覚えているらしいです。そしてなんと!記憶喪失力の高さに定評のある森田さんは、この時の三宅さんの服装を2016年の段階で覚えているのです。なんということだ....。散々「過去は振り返らない」「デビューしてから数年の記憶がほんとないの!こわいんだって」と自称している森田さんが、およそ25年前の人の服装を覚えているなんて!剛健の前には森田さんの記憶喪失力でさえ無効なのです。ちなみに三宅さんは紫色のジャージを、森田さんはバヤリースの黄色いTシャツをお召しになっていたそうです、サイケキッズかよ。

 

そしてはじめて交わした会話についてです。当時(おそらく)才能やセンスを開花させはじめていた森田さんに、ひとつ年下の三宅さんは「何年生?」と聞きました、この時点でタメ口です。森田さんが「(中学)2年」と答えると三宅さんは「(なんだこいつ小2)」と思ったらしいです。なんだそれ。でもダンスの上達とひきかえに当時のJr.が遠巻きになっていく悲しい時期に、三宅さんがドンドンドン!と森田さんの心のドアをいっぱい叩いたのかなと思います。

 

 

 

その後、剛健は一時代を築く最強のシンメに成長します。嵐の櫻井さんが「世間がJr.にフューチャーすること自体、剛健のおふたりが初めてだった」と語っているように、Jr.のコンサートもこの時が初めてだったといいます。

 

 

そしてやってきた1995年、何度聞いても死ぬエピソードが誕生しました。その年、バレーボールW杯のサポーターとして事務所からグループがひとつデビューすることになりました。そこで社長から直接打診を受けたのが三宅さん。「V6やらない?」と言われました。この質問、2択ですよね、「やる」か「やらない」か。だけど、デビューを目指して、高みを目指して日々自分を磨いているJr.としては実質1択。「やる」しか答えはないわけです。ただ、このときの三宅さんは、違いました。「剛は入らないの?」まさかの質問返しです。1999年の杜王町だったら死んでいる、吉良先輩に殺されているところでした、危ない危ない。

 

社長の答えは「剛は入らない」でした。そこで三宅さんは「じゃあやらない」という選択をしました。

 

 

「剛がいないならやりたくない」

 

 

なんだそれ??!?どうなったらそういう思考回路になるのか?しかもです、一瞬、何も考えずにそう言っていた、後に三宅さんはそう語っているのです。「剛がいなかったらデビューしても続かないだろうなと思った」と。バレーボールW杯期間限定の活動と思いながらも、剛がいなかったらデビューしても売れないし続かない、とも思った三宅さん。自分のデビューという甘い甘い蜜を目の前に垂らされながら、それを舐めなかった三宅さん。誘惑に全く動じず、シンメの片割れと活動することを選んだ三宅さん。どうですか、三宅さんこのとき15歳ですよ。

 

そしてこのエピソード、初めて三宅さんの口から語られたのが2013年なんです。18年!デビューしてから18年も!秘密にしていたこの爆弾級のお話。そしてこれの恐ろしいところは、ファンにとっても、トニセンにとっても2013年が初解禁だったのです。一緒に活動している、18年も一緒に活動してきたトニセンにでさえ、「墓まで持っていこうと思っていた」というこの秘密。どうですか。

 

 

剛健尊い、これはもう人類の口癖みたいなところがありますが、もう「尊い」という言葉でさえ薄く安くさくなってしまう、剛健の前では。剛健を表す語彙を持たないことに絶望してしまうほど、剛健は美しいのです。

 

 

と、こういうお話は数えられないくらいあるし、きっと当事者おふたりしか知らないこともたくさんあるでしょう。もうひとつだけ、剛健の神秘を感じるお話をします。

 

2016年、この年三宅さんは後輩である滝沢さんの舞台「滝沢歌舞伎」に出演することになりました。「みんなを笑わせてばかりいる滝沢を、純粋に笑わせるために出た」という漢気先輩感を見せた三宅さんでしたが、開演から1ヶ月後くらいに足を骨折してしまいます。三宅さんが骨折というほど大きな怪我をするのは初めてで、演目も一部変更して公演を続けることになりました。

 

そんな中、森田さんが公演を見学しに来ます。開演前の楽屋を訪れた森田さんは、シンメの片割れである三宅さんに「俺が来たんだから、足がちぎれても踊れよ」そう一言放ちました。なんだこれ??!この言葉を受けて三宅さんは、「剛もきっと死ぬ気で踊るだろう」と思いその日の舞台に臨みました。結局、その日を境に変更していた演目は全て元通りとなりました。三宅さん完全復活です、その立役者は森田さんです。

 

 

 

森田さんはよく、メンバーのことを「もう家族でも友達でもない。仕事仲間」と表現します。森田さんにとって三宅さんは「もはや仕事仲間」であり、逆もまた然りであると思います。それは決してなあなあにならない関係で、妥協を許さないということ。ハア、どうしましょうか。表現ができない、未来の文明人に託したいと思います。お願いしますほんと。剛健という歴史的事象と共に生きるだけで精一杯ですよ、こちらは。

 

 

 

シンメトリー、辞書で引くと「対称、左右の均等がとれていること」となるらしいです。これはほんとうに想像でしかないのですが、森田さんと三宅さんは「剛健」というシンメトリーで居続けるために、左右の均等をとり続けているのではないでしょうか。森田さんが変化すれば三宅さんも変化し、三宅さんが変わりたいときは森田さんにとって変わりたいときなのではないでしょうか。この鬩ぎあいが剛健を形成する、あのねえもう語彙はないです。

 

 

 

剛健という神秘の事象の目撃者になることができて幸運です、みなさんもったいないですよ。